自己言及のパラドックス

次の文のうち、正しい文は存在するか。存在するのであれば、正しい文をすべて答えよ:
1). この中で、1つの文だけが間違っている。
2). この中で、2つの文だけが間違っている。
3). この中で、3つの文だけが間違っている。
4). この中で、4つの文全てが間違っている。
この問題の答えは…
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「3番目の文が正しい」である。理屈は以下の通りだ。
まず、1番目の「この中で、1つの文だけが間違っている」が正しい文であるとすると、残りの3つの文のうち、2つは正しい文であることになる。しかし、残りの文のうちからどの2つを選んでも、1つ目の文を含め、互いに矛盾する主張をしていることになる。そのため、1番目の文が正しいことにはなりえない。
2番目の「この中で、2つの文だけが間違っている」が正しいと仮定しても同様に、残りの正しいとされる文の主張は、2番目の文と矛盾することになる。
一方、4番目の文「この中で、4つの文全てが間違っている。」が正しいと仮定すると、自分自身を含めて全ての文が間違っているという仮定に反する。よって、正しい文は3つ目の文であるということがわかる。
この特に4番目の文のような、自分自身に言及する主張は、直接的な矛盾を生じることが多い。この4番目の文に類似した言明が導くような類いの矛盾を「自己言及のパラドックス」と呼ぶ。
代表的なのが嘘つきのパラドックスと呼ばれるもので、「この文は間違いである」という形式の文から生じる。
もしこの文が実際に間違いだと仮定するなら、この文は正しいことを主張していることになり、この文が間違いだという仮定に矛盾するが、反対にこの文が正しいとするなら、この文は間違いであるという主張自体に矛盾してしまう。
この種のパラドックスは、古くから論理や数学の研究において影響を持ってきた。特に有名なものが、集合論における「ラッセルのパラドックス」だろう。
これは「自分自身を要素に含まない集合全体の集合」という集合を定義しようとすると、矛盾を生じるというものだ。実際、その集合をAとし、A自身がAに含まれるかどうかを問うてみると
1. もしAがA自身に含まれるなら、「自分自身を要素に含まない」という自分自身の定義に矛盾する。
一方
2. もしAが自分自身に含まれないなら、「自分自身を要素に含まない集合全体の集合」であるAに含まれてしまう。
つまり、どちらの場合も矛盾が導かれてしまう。これは、どんな性質を挙げても、その性質を共有する要素からなる集合が定義できるという前提に起因しており、この種の矛盾を避けるためにより厳密な公理に基づいた理論の再構築が試みられた。
ツェルメロとフレンケルによるZFCと呼ばれる公理系は、実質的にすべての数学がそこから導かれ、数学の基礎とみなされている。
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