1915年7月、Albert Einsteinは数学者David Hilbert(1862-1943)の招待により、ゲッティンゲン大学(ドイツ)を訪問した。その後数か月に渡り、手紙のやりとりで科学的議論を続けることになるほど、両者にとって実り多い出会いであった。Einsteinはその日々を、彼の生涯において最も消耗した期間かつ、最も刺激的な期間であったと記している。その結果は、一人の科学者、あるいはまた別の科学者によって書かれた一連の研究と論文であった。その中で、彼らは相対性の一般理論(GTR; General Theory of Relativity)の重力場の方程式を定式化した。

1915年12月、両方の天才たちが、これらの方程式を含む論文をほぼ同時に提出し発表された。 この結果、HilbertがEinsteinより先に方程式を発見したのか、という問題が提起された。 しかしHilbert自身は、論文の中で「結果として生じる重力の方程式は、Einsteinが以前の論文で確立した壮大な相対性の一般理論と一致するように私には思われる」と記しているように、理論の根本的な考えが同僚の仕事であることを認識していたことから、議論を解決する責任を負うこととなった。
◢ GTRに対する2つの立場
Hilbertの立場は、偶然にも、彼がGTRに取り組むことになった真の目的と一致していた。そのような方程式を見つけることはEinsteinにとっては優先事項であったが、HilbertはGTRの正当性を立証する数学的方程式だけでなく、他の物理学の理論も同様に導き出すことができる最小限の基本原理を確立しようとしていた。彼はすべての数理物理学の基礎となる最小の公理を求めていたのだ。数学的問題を解決するために必要なツール(手法と技法)を開発するための理論的枠組みを、公理的な方法で構築するというのは、彼の巨大なプロジェクトのもう一つのリンクであった。すべての問いに対する答えを見つけるのは、Hilbertが彼の修練の能力の内に抱いていたビジョンと、揺るぎない信念によって構成される目標であった。これは1886年にケーニヒスベルク大学でPrivatdozent(私講師)の地位を得てスタートした成功したキャリアの原動力であるとともに、彼にとっての共通のテーマであり、最終的に彼を現代数学の建築家になるよう導いた。
公理の探求は、不変性の理論(1886-1893)、数論(1893-1898)、幾何学(1898-1902)、積分解析と方程式(1902-1982)と断続程な研究へと彼を取り組ませ、そして基礎を確立させた。それにより、関数解析学の礎が与えられ、最終的に物理数学(1910〜1922)に至ることになる。
◢ 21世紀への数学的挑戦
それだけでなく、Hilbertが今日まで非常に人気であることに一つの理由あるとすれば、それは彼が1900年に、20世紀における研究分野を構成すべき23の数学的問題リストを発表したためであろう。そして、これらの問題は今日になっても数学者たちを忙しくさせている。
Hilbertは、莫大な学術的成果とは別に、彼のアクティビズムのためにも際立っていた。1914年、彼は、93人のドイツの知識人と科学者によって署名された、ドイツの戦争宣告の動機を正当化する『文明世界のためのマニフェスト』に彼の名前を加えることを(Einsteinと同様に)拒否し、その決断のために、彼は同僚や学生から孤立することとなった。その後すぐに、大半のキャリアを過ごしたゲッティンゲン大学で「候補者の性別が入学に反対する理由になるべきではない」と主張し、数学者Emmy Noetherを雇おうとした。その試みが失敗してからも、彼女の講座や講義を自分の名前で宣伝することによって、彼女を大学に留まらせ続けた。
すでに彼のキャリアの終わりごろであった1928年に国際数学者会議が開かれたとき、Hilbertは出席を拒否した多くのドイツ人の同僚たちを説得し、知識の普遍性の名の下にドイツ代表団を率いた。彼はまた、ナチスが取ったユダヤ系の教師を追放する措置にも反対した。
その頃には、彼のキャリアは終わりを迎えていた。不可避な年齢に起因する活力の喪失のためだけでなく、 1931年、若いオーストリア人の数学者であるKurt Godelが、Hilbertのアイデアに打撃を与えたことも原因であった。Godelは決定不可能な言明、すなわち正形式体系で否定も肯定もできない言明が存在することを主張した。より直観的に言えば、数学がすべての質問に答えることはできないことを示したのである。

その少し前である1930年に、Hilbertはあるスピーチの中で、数学に対する揺るぎない信念を改めて表明していた。その最後の言葉は「我々は知らねばならない、我々は知るであろう」であった。1943年にこの世を去った後、この言葉は ゲッティンゲンの墓地にある彼の墓石に碑文として刻まれた。
Miguel Barral
@MigBarral
この記事へのコメント